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マギと秘儀とグルジェフ・・・東方の三博士を求めて(その3)
「マタイによる福音書」の東方の三博士(マギ)は誰だったのか、ということを、引き続き考えています。
「マギ・星の証言」の著者エイドリアン・ギルバート氏は、その著書の冒頭に、本を書いた意図を記しています。
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(引用ここから)
キリスト教を一般に広めるにあたり、教会はそれがまったく新しい啓示であるかのような装いを与えた。
世界史の中で地上に突然現わされた雷光・・それがキリスト教であるかのようだった。
だが、それは本当だろうか?。
福音書の物語を客観的に見れば、ユダヤ教の大祭司がイエスを背教者とみなしていたのは明らかだ。
これはたんにイエスがモーセの教えを拡大解釈していたせいばかりではない。
イエスの教えには明らかに、非ユダヤ教起源の部分があったのである。
しかし、そのような非ユダヤ的源泉とは何なのか。
イエスはどのようにして、その源泉と接触することになったのか。
それこそ、わたしの探求のテーマであり、また“マギ”に関心を抱いた理由である。
(引用ここまで)
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著者はこの問いを抱いて、20年以上、“マギ”の伝説の背後に横たわる大きな問題の答えを探し続けました。
そして、彼は続けて書いています。
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(引用ここから)
わたしの考えでは、世界の多くの人々が神の息子として崇拝するようになった救世主イエスは、単独で活動していたわけではない。
イエスは、彼が演ずるべき歴史的な役割(運命)と、秘教的な知識の両面について、かくれた叡智の師匠(マスター)たちの指導を受けていたのではないか。
(引用ここまで)
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彼の最初の問いは、22歳の時、イスラエルに貧乏旅行をして辿り着き、ベツレヘムのクリスマスを見物したときに芽生えました。
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(引用ここから)
ベツレヘムの教会前の広場には電飾のプラスチックの星が輝いていた。
よく見ると、プラスチックの星は五亡星だった。
五亡星は伝統的にクリスマスの星とされている。
けれども考えてみると妙だ。
聖書ではベツレヘムは「ダビデの町」と呼ばれている。
だが、ダビデの星はシナゴーグやイスラエル国旗にあるように六亡星だ。
なぜベツレヘムの星が六亡星でなくて五亡星なのか。
飾の星を見ながら、東方の三博士のことを考えた。
彼らはベツレヘムを訪れた最初の巡礼者だ。
だが彼らは何者なのか。
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/c/cd86d706a9d8afba44ecf5d76c3b98ca/2 より「
“東方”なるもの・・イエスを祝ったのは誰だったのか(その4)
イエスの誕生を祝いにやってきた「東方の三博士」とはどんな人たちだったのか、についての続きです。
引き続きエイドリアン・ギルバート著「マギ・星の証言」から、抜粋して引用します。
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(引用ここから)
8世紀、イスラム勢力はスペイン、北アフリカ、パレスチナ、メソポタミア、ペルシアから北インドまで広がっていた。
キリスト教世界はこの時、ヨーロッパとトルコだけに縮小してしまった。
しかしだからといって新しいアラブ人の帝国にキリスト教徒が全くいなかったわけではないし、これらの土地の住民のすべてがイスラム教徒にならなくてはならなかったわけでもない。
実際、イスラム教は西洋人が考えているほど異質な宗教ではない。
イスラム教は多くの点でキリスト教の改良版であり、預言者ムハンマドは一種のプロテスタント的な原理主義者であった。
「イエスは神の子である」、というキリスト教徒の信念は馬鹿げたものとして否定しながらも、ムハンマドは預言者としてのイエスに敬意をはらった。
キリスト教徒はイスラム勢力の拡大という新たな政治状況に慣れる必要があった。
キリスト教が生まれた豊かな東方は、つねに西方よりも知性的であった。
初期の多くの教師たちが現われたのは、アンティオキア、アレクサンドリア、エデッサといった東方であり、これらの場所にはモーセの時代にさかのぼるほど長い哲学的伝統がある。
また東方にはネストリウス派やヤコブ派といった多くの小さな異端のグループがあった。
これらはローマ・カトリックが神学を独占していたヨーロッパ社会では全く知られていなかった。
イスラム支配だったからこそ、このような周辺的な教会は権威による干渉を受けることなく伝統を存続することが出来た。
しかしそれは同時に他の教会との和解の機会がなかったということでもあった。
こうしてキリスト教の異教的伝統はイスラム支配のおかげで、保たれた。
その知識と伝統は共同体の内部で世代から世代へと受け継がれ、けっして表に出ることはなかった。
(引用ここまで)
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“マギ”とは、非キリスト教の知恵者であり、キリスト教は異教と接触しながら生まれ、異教と接触しながら存続した、と言っていいのではないかと思います。
“マギ”の伝統を受け継ぐ者は、カトリックが専制政治を行うことになった後も、非キリスト教圏の文化において常に密かに存在し続けた、と言われています。
非キリスト教的思想は、ルネッサンス以降は、神秘思想として再びヨーロッパに紹介されるものもあり、それらは西洋の神秘思想として今の精神世界にも継承されていると思われます。
そのひとつであるヘルメス学は、15世紀ルネッサンス期にヨーロッパにもたらされましたが、
その文書を研究したイタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノは、ガリレオより早期にコペルニクスの地動説を認めた人ですが、処刑されてしまいました。
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(引用ここから・同書より)
ブルーノの罪状の中には、「キリスト教の処罰法である十字架はイエスの磔刑に由来しているのではなく、もっと古いシンボルであるアンサタ十字、すなわちエジプトのアンクからきているという信念をもっている」ことがあった。
フランシス・イエィツはこのことについて、ベネチア宗教裁判に関する文書から引用している。
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非常に重要なのは、ブルーノが十字架をエジプトの神聖なしるしと考えていた点である。
ブルーノは述べている。
「キリストがはりつけにされた十字架は、もともとはキリスト教の祭壇の形式ではなかった。
じつは女神イシスの胸に彫られたしるしであったものを、キリスト教徒が盗んだのだ。」というのだ。
「わたしはマルシリオ・フィチーノの著作を通して、この十字架の美質と神聖さが、われらの主が受肉した時代よりはるか古代にさかのぼること、それがエジプトの宗教が盛んだったモーセの時代に知られていたこと、このしるしがセラピス神の胸につけられていたことを知った。」と彼は語った。
そして、かれは火あぶりの刑に処された。
(引用ここまで)
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処刑されても主張し続けるべき真理が書いてあった文書「ヘルメス文書」については、wikipediaに以下のようにあります。
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ヘルメス文書とは、ヘルメス・トリスメギストスが著したと考えられた、神秘主義的な古代思想の文献写本の総称である。
彼はモーゼと同時代の知者とも考えられていた。
文書には紀元前3世紀に成立した占星術などの部分も含まれるが、紀元後3世紀頃までにネオプラトニズム(新プラトン主義)やグノーシス主義などの影響を受けて、エジプトで成立したと考えられている。
ヘルメス選集の中でも、第一文書「ポイマンドレース」は、グノーシス主義的な文献として有名であり、アラビア語に翻訳され、イスラム圏のスーフィーズムでも言及される文書である。
ムスリムにとって、ヘルメスは預言者エノクと同一視されており、クルアーンでは預言者イドリースとされる。
内容は複雑であり、占星術・太陽崇拝・ピュタゴラスなどの要素を取り入れている。
他にも、「一者」からの万物の流出(ネオプラトニズム的)や、神を認識することが救いである(グノーシス主義的)などの思想もみられる。
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ここにまとめられているように、ヘルメスという概念は多岐にわたっていて、キリスト教文化がキリスト教以外の周辺の密教的文化を総称してそう呼んでいるのではないかと思うほどです。
同様に、東方の知恵者という意味での“マギ”とは誰だったのかという問いは、「東方」という言葉が実際には非キリスト教世界すべてを対象としているのではないかと思われます。
雄弁な西洋文明の周りには、いつでもそれ以外の文明が静かに、相補的にあり続けた、ということです。
現在でも、“マギ”の知識の伝授が実際に行われているかどうかは、定かではありませんが、自ずから明らかにされるまでは、僧院や秘密結社やミステリースクールという形をとることもあればとらないこともあるものとして、存続していくのではないかと思います。
写真は、フランク族の墓碑に描かれたイエス・キリスト像・7世紀(創元社「図説世界の歴史3」より
Wikipedia「アンク」より
エジプト十字とも呼ばれる。そもそも Ankh という古代エジプト語自体が生命を意味しており、生命の象徴とされる。
ラテン十字の上部がループ状の楕円となった形状をしており、サンダルのひもをかたどったものと言われる。
また、ヒエログリフにおいて、Ankh ないし Anx 音を表す文字としても用いられ、ツタンカーメンも Tut-ankh-amen の ankh の部分にこの文字が用いられている。